文学散歩と諏訪社へと下る坂道 /新潟県湯沢町

今回も「高半旅館へとのぼる坂道」の続きというか湯沢町の坂道についてです。
訪れた時期は、前の記事と同じく2月初旬のことですね。

文学散歩と諏訪社へと下る坂道1
写真1

こちらは前回の「高半旅館へとのぼる坂道」の坂上あたりに設置されていた文学散歩の案内板に描かれている地図ですね。(写真1)
(補足ですが、この地図は小説「雪国」に関連した文学散歩の案内板です。詳しくはこれまでの記事も読んでもらうとわかりやすいかも。)
この地図をみると、湯坂の坂下から地図下部に一直線に伸びている道の向こうに、諏訪神社と駒子が下宿していた豊田屋があると書かれてあるではないですか。

そんなわけで、今回は地図に従ってその道をたどってみることにしました。

文学散歩と諏訪社へと下る坂道2
写真2

まずは、湯坂の坂下あたりからの景色ですね。(写真2)
写真1の地図の一番下には上越線と書かれていることから、この写真2でも遠くにJRの高架が見えていることから、目の前の坂道がどうやら諏訪神社や駒子が下宿していた豊田屋のある場所に向かう一直線の道のようでした。
地図では高低差のことは書かれていないので、わからなかったのですが、現地にいくとなかなか興味深い坂道になっていましたね。
川端康成氏もこの風景をみて、”お、ここはいいのではないか?”と思ったのかもしれないなあと妄想してみたり。

文学散歩と諏訪社へと下る坂道3
写真3

すこし坂道を下り、坂上方向をみてみたものです。(写真3)
坂上には、湯坂の途中にある山の湯の建物も見えていました。
ちなみに、山の湯は以前にもこのブログで取り上げましたが、共同浴場で、川端康成氏も執筆中などにお湯に浸かったことでも知られています。

文学散歩と諏訪社へと下る坂道4
写真4

写真3とだいたい同じ位置より、今度は坂下方向を眺めてみたものです。(写真4)
まわりの家々のつくりも興味深いですね。もちろん奥の高架も。

文学散歩と諏訪社へと下る坂道5
写真5

さらに坂をくだり高架下のところまでくると、坂道はまだ続いていました。(写真5)
高架の柱とのコラボもなかなかですね。

文学散歩と諏訪社へと下る坂道6
写真6

写真5の左側には、諏訪神社があることを示す石碑がありました。(写真6)
ただ参道とというか入口はもうすこし離れているんですが。

文学散歩と諏訪社へと下る坂道7
写真7

諏訪神社の境内にも入ってみました。(写真7)
敷地は広く、遠くに見えているのが本堂ですね。
いちおう当日はあいさつがてらお参りもしましたよ。

文学散歩と諏訪社へと下る坂道8
写真8

坂道にもどり、さらに坂を下り、坂上方向をみてみました。(写真8)
坂上のほうに山の湯が見えているとおりけっこうな高低差具合でしたね。

文学散歩と諏訪社へと下る坂道9
写真9

そして、やっと文学散歩の目的地あたりにやってきました。(写真9)
右側の建物のあるあたりが、地図にあった「駒子が月宿していた豊田屋」ですかね。
もちろん駒子も豊田屋も川端康成氏の空想の産物なので、現実にはなにもなかったのでしょうけど。
ただ川端康成氏が執筆時(もしくはその前後)にこの坂道を上り下りし、諏訪神社にも立ち寄ったであろうことだけは事実なのかもしれないですけどね。

ということで、今回は虚実入り交じった散歩になりましたが、こんな感じです。
(なお、今回もあくまで観察記というか旅行記気分で公開していますので、もし記事読んで現地に行きたくなっても、ここは来年以降も存在していますので、しばらく控えてくださいね。)

地図
新潟県南魚沼郡湯沢町

※この記事は、以前に「東京坂道さんぽ」で書いたものをこのサイトに移行したものです。日付は公開当時のものとしています。

高半旅館へとのぼる坂道 /新潟県湯沢町

湯坂(NO.310)その3」の続きで、今回は湯坂の坂下から高半旅館にのぼる無名坂を取り上げてみたいと思います。
もちろん訪れた時期は、前の記事と同じく2月初旬のことですね。

高半旅館へとのぼる坂道1
写真1

まずは、坂下あたりの様子など。(写真1)
湯坂の坂下でもあるので、同じ写真ですが、今回の無名坂はここから右側にのぼっていました。

高半旅館へとのぼる坂道2
写真2

ちなみに、今回の無名坂の坂上には、こんな具合に「「雪国」文学の散歩道 高半旅館」という案内看板が設置されていました。(写真2)
せっかくなので、案内板の内容をそのまま抜粋しておくとですね、
『川端康成「雪国」執筆の宿「高半旅館」。現在は雪国の宿高半と改名されているが、川端康成が投宿した「霞の間」は当時のまあ館内に保存されている』
とありました。

そういうわけなのですよ。
今回の無名坂は、湯坂のように小説とは直接関係ないようですが、坂上には高半旅館が現在もあることから、取り上げてみたというわけですね。(詳しい場所については、最後に地図もリンクしていますので、参考にしてみてください)

高半旅館へとのぼる坂道3
写真3

では坂道のほうにもどって、このあたりからわかりやすい坂道風景が広がっていました。(写真3)
左上の建物は中屋という宿の建物で、現在の高半旅館はその奥にあります。
なお、現在の高半旅館は建て替えられていて、川端康成氏が泊まっていた当時そのままの建物ではないようですので、あしからず。

高半旅館へとのぼる坂道4
写真4

さらに坂をのぼり、坂下方向をみたものです。(写真4)
坂下のほうに湯坂へとつながっているうねうねスロープもみえていますね。

高半旅館へとのぼる坂道5
写真5

写真4とだいたい同じ場所から、眼下のまちなみが見渡せるポイントがありました。(写真5)
湯坂の時よりも眼下のまちなみの雰囲気がよくわかるかもですね。
とにかく、このときは例年にくらべてもかなり雪が少なく、坂道を歩きながらも地球温暖化というたいそうな言葉がたびたび頭に浮かんでくる散歩にもなりましたかね。

高半旅館へとのぼる坂道6
写真6

こちらは、坂上あたりまできて坂下方向を眺めたものです。(写真6)
坂下とはかなり高低差がありました。
そのおかげで遠くには雪が積もった山の斜面もよくみえていました。
そしてこのすぐそばに高半旅館があるというわけですね。

高半旅館へとのぼる坂道7
写真7

最後はおまけがてらですが、この日は高半旅館内にあった「かすみの間」なる文学資料室も見学してきました。(写真7)
ここは、建て替えられる前の、川端康成氏が逗留して「雪国」を執筆したという「かすみの間」を復元した資料室で、500円を払えばだれでも見学できるんですよ。
今回はこれ以上中の写真は載せませんけど、関連資料もたくさんあって、かすみの間の当時のインテリアも楽しめるので、個人的には見ておいてよかったなと思いました。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
この有名な書き出しもこの部屋で生まれたんですよね。
いやはや。

ということで、今回はこんな感じです。
(なお、今回もあくまで観察記というか旅行記気分で公開していますので、もし記事読んで現地に行きたくなっても、ここは来年以降も存在していますので、しばらく控えてくださいね。)

地図
新潟県南魚沼郡湯沢町

※この記事は、以前に「東京坂道さんぽ」で書いたものをこのサイトに移行したものです。日付は公開当時のものとしています。

++ ++